姓が違う子を持つ事実婚の父が語る
・一見平等そうな法は不平等の根源
世界でも日本にしか残っていない婚姻時の強制的夫婦同姓制は、夫婦のうち姓の変更を強いられる側には大きな負担です。運転免許証・パスポート・銀行口座等の名義変更はもちろん、戸籍名でないと容認されない国家資格などがあり、本来姓を通称として使用できる場面は極めて限られています。本来性での実績と新戸籍名がすぐにリンクされないことから、名前をビジネスや学術活動と看板として活用している現代人にとって、強制改姓による不都合や負担は枚挙に暇がありません。そのため私は、改姓によって自分がそのような目に遭うのは嫌でした。一方で、自分が嫌なことを妻に強いるのは、私の道徳観が許しません。そこで法律婚を断念して事実婚を続けています。ここで詳細は述べませんが、法律で明文化された事実婚というものは存在しないので、法的に保証される夫婦の地位は極めて脆弱であり、事実上の同棲に過ぎません。そのため仕方なく法律婚を選ぶカップルも多いのですが、改姓によって被る現実的な不利益のため、結婚を先延ばししたり、諦めたりする人もいます。少子高齢化により国の将来が不安視されているにもかかわらず、強制的夫婦同姓制に拘泥して若者の結婚を妨げる国の姿勢に、正当性はあるのでしょうか?また、現行制度のもと、姓を変えるのは96%が妻の側。民法750条では「いずれかの姓を名乗る」とされ、夫が改姓することも可能ですが、現実は女性がほぼ一方的に改姓を強いられます。これは憲法第14条が定める〝法の下の平等〟の理念に反します。選択的夫婦別姓制度の一日も早い法制化が望まれます。
・事実婚夫婦と子どもの姓
事実婚の私と妻は、戸籍上では〝他人〟です。私と妻との間に子供ができれば、それは妻の子(いわゆる非嫡出子)となり、夫である私は、実の子を認知することになります。もし、子と私の姓とを同一にしたい場合は、私と子が養子縁組することになりますが、その場合は、妻と子の姓は異なることになります。いずれにしろ、生物学上の親子という揺るぎない関係が、書類上の手続きで、法的に左右されてしまうわけです。選択的夫婦別姓が法制化されれば、血縁関係にそぐわない、このような戸籍上の〝妙な関係〟は解消されることになります。
ただし、選択的夫婦別姓が認められた後の別姓法律婚夫婦でも、現在の事実婚でも、子の姓が両親の一方と異なる事態が生じるのは同じです。これは、多くの人にとって気になるところのようで、選択的夫婦別姓を巡る議論ではしばしば問題視されます。1996年に法務省が作成した民法改正案でもこの点に留意しており、別姓を選択する夫婦の子の姓については「夫又は妻の氏を子が称する氏として定めなければならないものとする。」(改正案第3項の2)とされています。ところが、法が規定するものであっても、「親子で姓が異なることで、〝家族の一体感〟や〝絆〟は保てるのか?」「姓の違う子はいじめられるのではないか?」という疑念が巻き起こるようです。拙稿は、私や家族の体験を通し、まさにこの問題に対して回答するものです。
・「別姓婚家庭で〝家族の一体感〟は保てるのか?」
では、逆に私から訊いてみましょう。
「〝家族の一体感〟とは、姓が同じであればできるものなのですか?」
「そもそも家族の一体感とは何ですか?」
あなたは、観念論や理想論ではなく、現実的な答えができますか?
実際、姓が違うことで違和感がある、ということはありません。普段、夫婦で向き合ったとき、互いの姓を意識しますか?会話するとき、触れあうとき、姓を確認しますか?そんなことはない、と思います。もし姓が同一であることをいちいち確認しない保てない関係性ならば、それはかえって危ういのではないでしょうか?それならばむしろ、姓が同一であることを楔として、相手を束縛することを正当化する関係性だとは言えないでしょうか?
現在、結婚するカップル数に対して3分の1もの夫婦が離婚しています。私はここで、離婚したカップルは婚姻関係にあった際には100%同姓だったことを強調したいです。この事実だけでも、姓の同一性と絆の強さとは、全く無関係であることがお分かりですね。また、結婚改姓した人は、無条件で婚家と絆が生じる一方で、実家との絆がその瞬間に断たれるのでしょうか?そんなおかしなことは決してありませんよね。
・私と姓の違う子の〝育ち方〟
子が成長して保育園に行くようになると、連絡先として私および妻の名を、園に登録することになります。小学校以降に進学する際も同じです。妻も私もフルタイムで働いており、送迎は2名が交代で行いましたので、子と同姓の妻だけでなく、別姓の私も、保護者名を保育園や学校に知らせました。子の進学により、他の保護者との接点もできます。誰も敢えて口にはしませんが、いろんな人が、別姓の私の家族に関し様々な〝憶測〟を巡らせることは想像がつきました。そこで積極的に、私たちの姿を見ていただくことにしました。子は夫婦2人の実子であること、別姓事実婚をしていること、そして何よりも、〝普通の家族〟であることを周囲に見てもらい、理解していただくように努めたのです。それが奏功したのかどうか、今となっては分かりませんが、子は特段色眼鏡で見られたり、いじめられたりしたことはないまま成人しました。むしろニコニコしながら、「よそのおうちは、どうしてお母さんとお父さんの名字が一緒なの?」と無邪気に質問されました。産まれた時から私と妻の姓が違えば、子は「ああ、そんなものか」としか思えないのです。別姓の私が、ある日突然出現したわけではなく、オムツを替えミルクを与え、普通の父として振る舞っていたに過ぎないので、子にとっては違和感を覚える理由などないのです。ここで、皆さんが幼かった頃、友達の両親のことをどのように呼んでいたか、思い出していただきたいと思います。「Aくんのお母さん」「Bちゃんのお父さん」が普通。その姓がどうか、気にする理由などないのではありませんか?
「いじめられる」という発想は、自身が抱く蔑視感情の表れ
別姓婚夫婦は、2人とも姓を変えないこと以外は〝普通〟の夫婦に過ぎません。しかし冒頭でも触れたように、選択的夫婦別姓の実現を求めてSNSなどで情報発信すると、否定的な意見が多く出ます。特に多いのが「姓の違う子はいじめられる」というものです。上述したように、そんなことは全くないのですが、どうしてこのような声が根強いのでしょうか?その理由は、不倫・妾腹による婚外子や離婚など「特別な事情」で親と別姓の子ができた、という偏見によるものだと推察します。実際、「別姓婚とは、道ならぬ恋で結婚できなかったカップルに、法律婚と同等の権限を与えるもの」と勘違いしている人すらいます。〝普通〟の家庭でないことに蔑視感情を持つこと自体が許されないのは言うまでもありませんが、日本はつい最近まで、例えば非嫡出子が相続する遺産を、嫡出子より低く抑えるような差別が合法的に行われていたような国だったのです。人々の偏見が、不公平な法律を近年まで残存させていた、とも考えられるでしょう。私は、「親と別姓の子供はいじめられるからかわいそう」と主張する人たちに対して、次のように申し上げたいと思います。「〝かわいそう〟とは、自身が抱く親と別姓の子に対する差別感情を当事者の責任に転嫁しておきながら、哀れな存在に憐憫を垂れる優しい自分を演出しているだけです。それは卑劣ではないのでしょうか?いじめられるのがかわいそう、と思うなら、いじめる方を批判するのが正しい態度ではないでしょうか?」と。その一方で、かわいそう、と思う自らの心底に潜む蔑視感情と真摯に向き合い改めて欲しい、そう心から願います。c