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不規則勤務のため毎朝欠かさず見ている朝の連続テレビ小説「なつぞら」。戦争で両親を失い、兄と妹と別々となり、自らは、親の戦友に引き取られて、北の大地で、酪農業を学びながらもやがて、アニメーションとの出会いで、その道に突き進む主人公奥原なつの生き方を通じて、いつも感動の涙を流しているだけでなく、思いがけない発見もしている。
 別姓の問題でいうなら、ドラマの中で、姓が別であっても家族としての繋がりさえしっかりしていれば、同居していても差し支えないという印象を受けた。
 あの当時としては、まだまだ偏見が強い時代ではあったけど、制作する側からの意図として、今の時代に照らし合わせたストーリー性そのものが、多様な社会で形成されているという実感が、ドラマを見ていてそう湧いてきたのだ。
 とにかく一つになることが、決して悪いとは言わないが、違和感を抱えたまま、自分の姓を変える変えないではなく、互いに納得しながら歩める社会にしていくには、価値観の違いを大事にしながら、新しい未来を築いて、後世へ繋げていくことではないかと考えられる。
別姓には、身近なところから考えられるケースは、これからもたくさん出てくるはずだ。それに応えることができるようにいくつもの選択肢が持てる多様な考えがあり、それを育てることだけでなく、認めあえる社会こそが大きな下支えとなって行けると確信している。姓氏に縛りつけてきた社会には、ある意味不平等な構造を生み出してきた経緯があリ、実はそれが不幸を招く結果となる。
「あそこん家とは親戚でもなく、赤の他人で関係がないのに頼られて来て困る」と、同じ地域に住む同姓の集まりの会合で、受けた仕打ちを経験してきたため、同姓であることが、決して幸せではないことを身に持って経験してきた。だからこそ、周辺との関係もさることながら、違いもあったりしながら、構成される社会へと、時代は変遷してきている。固定観念で縛り付ける時代は、終わりに来ているように思う。

私は、事実婚歴約11年になる者です。

 もともと、結婚しても、どちらかが改姓するのではなく、其々が従前の姓を維持したいと考えていました。第一に、私は生まれ育ってから親しんできた自分の姓名に非常に愛着があること。たまたまですが父がつけてくれた名と姓を合わせると姓名がとある日本の古典文学の作品名よく似ており、生まれてこの方、自身の名前には大変誇りを感じて参りました。亡き母が、幼稚園の頃から持ちものにひらがなで記名してくれた柔らかい字体も集団生活の中で心の拠り所でした。

更に、医療職に従事しておりますが、結婚生活を開始したタイミングで現在の職業生活を開始しており、改姓してしまえば戸籍名で登録する国家資格も新姓となり、自分の本来の名前での職業生活が送れなくなります。決して早い結婚とも言えず、最初の大学卒業後の進路も二転三転しておりますので、職業生活を新姓で開始すると、昔の友人や同級生に私が私として認識されないという恐怖にも似た不安がありました。

同時に、夫も同様に資格職に就いていることから、夫が改姓し通称使用することも現実的ではありませんでした。

 今なお、日本では婚姻時どちらかの姓に統一しなければならず、婚姻するにはどちらかが改姓をしなければなりません。したがって、私が「私の名前」で新生活を開始し、夫は「夫の名前」で生活を続けるにあたり、法的に一番妥当な判断が、婚姻届けを提出しない事実婚でした。

 事実婚では戸籍名と「私の本来の姓名」が同一ですので、日常生活の中で姓の使い分けによるストレスはありません。

 事実婚カップルが法律婚を一時的にせよ検討する一つのきっかけが、子の誕生かと思います。当方は2回出産しておりますが、一時的に法律婚をすることを選びました。事実婚で、夫が認知するという形で出産する方法もありますが、第1子出産の際には、嫡出児と非嫡出児の間の相続上の差別がまだありましたので、その子との間の格差が生じるのは、子の立場に立つと不利益が生じる可能性を考慮し、出産に際し、婚姻届けを提出しました。周囲の事実婚でお子様のおられる諸先達にアドバイスを請い、出産前や出産時に事故などで万が一夫や私が亡くなっても子どもが嫡出児となるよう、この時は出産前に余裕をもって早めに婚姻届を提出し一時的な改姓をしたため、出産後、入院先で自分の社会保険関係の改姓をしていないことを指摘され、一時的な改姓であるのに改姓手続きを要求され(もちろん医療機関としては正当な手続きではあるのですが)、産後にたいへんな精神的・身体的負担を感じました。こういう場面では旧姓使用など全く配慮が及んでいないことを痛感いたしました。この時の経験を活かし、入院中の医療機関でのトラブルを避けるため、第2子出産時には予め改姓せず、子の出生届と両親の婚姻届けを同時に提出し、推定嫡出で嫡出児とする方法を取りました。 真夏の灼熱地獄の中、産院から退院したその足で、生後間もない児を連れて家族4人で区役所に行き、数十分手続きに費やしたのは今もありありと覚えております。第2子誕生時には嫡出・非嫡出の間の相続上の差別はありませんでしたが、第1子が嫡出であり、実質的な意味合いは薄いとは思いながら、兄弟間での不公平をなくすために、この時も一時的に法律婚を選択したのです。

別姓が認められないことによる不都合としては、上記の法律婚に伴う諸手続きの手間に加え、日常の細々したことが色々あります。特に子供を持つ親としては、法律上、日本人同士のカップルでは選択的夫婦別姓が認められていないことから、私と子の間で姓が違うことで、同姓の親子同士であればほとんどチェックもされずに通る場面で親子関係について「名字が違いますが」と尋ねられてしまうことが挙げられます。具体的には、金融機関の口座の開設や住所変更は、親子が同姓だと割と簡単に手続できますが、親が別姓だと「戸籍謄本を提出しろ」と煩雑になります。もちろん、離婚し親権がないのに勝手に金融口座の管理をするような悪質なケースを想定してのことでしょうが、同姓でも親権がない場合はあり得るため、親権があっても別姓だと親子と認定されにくい現行の慣習は、例えば国際結婚が増加し国際結婚カップルの間に誕生する子が増加していたり、離再婚による血のつながりのない親子が家族として暮らすことが増えている現在、同姓=親子という考え方はあまりにもナイーブであり時代にそぐわないものです。また、手続きに関しては、事実婚であることをある程度公的に示そうとすると、住民票の夫/妻(未届)の記載ですが、法律婚から事実婚に移行する際、窓口で「離婚するのにどうして続柄を妻(未届)にするのか、相手が嫌で別れるのではないのか」と理解してもらえず、複数職員とのやり取りの挙句、「職業上使用している戸籍名保持のために書式上離婚するだけであり、実態の夫婦生活は変わりません」等、一筆理由を記載せねばならないことが挙げられます。

2015年の夫婦同姓を合憲とした最高裁の判決文は、現時点ではまだ人権侵害という段階に至っていないという言い方を繰り返します。確かに夫婦別姓を願うのは国民全体ではないものの、それが実現されないために私たちのように日々苦痛を味わう人々が現に存在します。個人の人権の一つである姓名の一部である姓を、婚姻に伴い強制的に改姓するのは立派に大きな人権侵害といえますし、晩婚化や離婚率の上昇、結婚改姓後も勤務等社会生活を継続する人々の割合の上昇などを考慮すると、個人の継続的な特定が難しくなる結婚改姓というシステムは、社会にとって大きな損失であると同時に、社会的な側面でも、改姓する側に婚姻形態の変化を望まずして周知してしまうプライバシー侵害として大きな人権侵害を強いているのではないでしょうか。本来ならば幸せなできごとである結婚(法律婚)が、一方の個人の尊厳を侵すのです。そのために結婚話が壊れたり、別姓保持のために意に反して離婚届を出したり、やむなく事実婚状態で選択的別姓法案が通るのを待っているカップルがたくさんいたりすることを政府は考慮してほしいと考えます。

別姓での生活は、上記のような諸手続き面を除けば、何の不便もなく、周囲に少し説明するだけで済みます。国際結婚、ひとり親家庭、再婚家庭、更に高齢になってからの再婚が増えた現代では、夫婦の姓が異なる家庭も珍しくありません。「夫婦別姓」ではなく、単なる「姓維持婚」である、というように発想を転換すればよいと思います。

11月22日は、「いい夫婦の日」です。2017年の「いい夫婦の日」には婚姻届けを提出するカップルが普段の4倍ほどになるとNHKの地方放送局のニュースで報道していました。その際にインタビューを受けた方々の中で、一人の女性が、「昨日まで名字が変わるのが寂しくて泣いていた」と語っていました。日本人同士で婚姻届けを提出すると、その夫婦のどちらかは強制的に改姓、それまでの氏名を法的に維持できないという現状、結婚という慶事とはいえ、片方が「泣くこともある」、 そんな「いい夫婦の日」はとてもいびつです。

1979年の国際児童年に際し、日本の音楽グループ、ゴダイゴが協賛歌として歌った「ビューティフルネーム」には繰り返しこのような歌詞が出てきます。

「名前 それは 燃える 生命

 ひとつの地球に ひとりずつ ひとつ」

子どもの人権を名前という命に喩えて称えている歌詞だと解釈していますが、大人の人権も、ひとりずつひとつ、その名前に命として宿っているのではないでしょうか。この歌を聴き、歌いながら、選択的夫婦別姓制度に思いをはせております。そして、婚姻後も氏の維持が法的に認められるように、どちらかが泣く「いい夫婦の日の婚姻届け提出」、もうすぐ終わる2018年もそんないい夫婦の日でした。どちらかが改姓となって泣いたり、改姓手続きの手間暇(時間だけでなくてコストも)がかかるようないい夫婦の日は、令和の御代にこそ、もう終わりにしたいと切に願います。

姓が違う子を持つ事実婚の父が語る

・一見平等そうな法は不平等の根源

世界でも日本にしか残っていない婚姻時の強制的夫婦同姓制は、夫婦のうち姓の変更を強いられる側には大きな負担です。運転免許証・パスポート・銀行口座等の名義変更はもちろん、戸籍名でないと容認されない国家資格などがあり、本来姓を通称として使用できる場面は極めて限られています。本来性での実績と新戸籍名がすぐにリンクされないことから、名前をビジネスや学術活動と看板として活用している現代人にとって、強制改姓による不都合や負担は枚挙に暇がありません。そのため私は、改姓によって自分がそのような目に遭うのは嫌でした。一方で、自分が嫌なことを妻に強いるのは、私の道徳観が許しません。そこで法律婚を断念して事実婚を続けています。ここで詳細は述べませんが、法律で明文化された事実婚というものは存在しないので、法的に保証される夫婦の地位は極めて脆弱であり、事実上の同棲に過ぎません。そのため仕方なく法律婚を選ぶカップルも多いのですが、改姓によって被る現実的な不利益のため、結婚を先延ばししたり、諦めたりする人もいます。少子高齢化により国の将来が不安視されているにもかかわらず、強制的夫婦同姓制に拘泥して若者の結婚を妨げる国の姿勢に、正当性はあるのでしょうか?また、現行制度のもと、姓を変えるのは96%が妻の側。民法750条では「いずれかの姓を名乗る」とされ、夫が改姓することも可能ですが、現実は女性がほぼ一方的に改姓を強いられます。これは憲法第14条が定める〝法の下の平等〟の理念に反します。選択的夫婦別姓制度の一日も早い法制化が望まれます。

・事実婚夫婦と子どもの姓

事実婚の私と妻は、戸籍上では〝他人〟です。私と妻との間に子供ができれば、それは妻の子(いわゆる非嫡出子)となり、夫である私は、実の子を認知することになります。もし、子と私の姓とを同一にしたい場合は、私と子が養子縁組することになりますが、その場合は、妻と子の姓は異なることになります。いずれにしろ、生物学上の親子という揺るぎない関係が、書類上の手続きで、法的に左右されてしまうわけです。選択的夫婦別姓が法制化されれば、血縁関係にそぐわない、このような戸籍上の〝妙な関係〟は解消されることになります。

ただし、選択的夫婦別姓が認められた後の別姓法律婚夫婦でも、現在の事実婚でも、子の姓が両親の一方と異なる事態が生じるのは同じです。これは、多くの人にとって気になるところのようで、選択的夫婦別姓を巡る議論ではしばしば問題視されます。1996年に法務省が作成した民法改正案でもこの点に留意しており、別姓を選択する夫婦の子の姓については「夫又は妻の氏を子が称する氏として定めなければならないものとする。」(改正案第3項の2)とされています。ところが、法が規定するものであっても、「親子で姓が異なることで、〝家族の一体感〟や〝絆〟は保てるのか?」「姓の違う子はいじめられるのではないか?」という疑念が巻き起こるようです。拙稿は、私や家族の体験を通し、まさにこの問題に対して回答するものです。

・「別姓婚家庭で〝家族の一体感〟は保てるのか?」

では、逆に私から訊いてみましょう。

「〝家族の一体感〟とは、姓が同じであればできるものなのですか?」

「そもそも家族の一体感とは何ですか?」

あなたは、観念論や理想論ではなく、現実的な答えができますか?

実際、姓が違うことで違和感がある、ということはありません。普段、夫婦で向き合ったとき、互いの姓を意識しますか?会話するとき、触れあうとき、姓を確認しますか?そんなことはない、と思います。もし姓が同一であることをいちいち確認しない保てない関係性ならば、それはかえって危ういのではないでしょうか?それならばむしろ、姓が同一であることを楔として、相手を束縛することを正当化する関係性だとは言えないでしょうか?

現在、結婚するカップル数に対して3分の1もの夫婦が離婚しています。私はここで、離婚したカップルは婚姻関係にあった際には100%同姓だったことを強調したいです。この事実だけでも、姓の同一性と絆の強さとは、全く無関係であることがお分かりですね。また、結婚改姓した人は、無条件で婚家と絆が生じる一方で、実家との絆がその瞬間に断たれるのでしょうか?そんなおかしなことは決してありませんよね。

・私と姓の違う子の〝育ち方〟

子が成長して保育園に行くようになると、連絡先として私および妻の名を、園に登録することになります。小学校以降に進学する際も同じです。妻も私もフルタイムで働いており、送迎は2名が交代で行いましたので、子と同姓の妻だけでなく、別姓の私も、保護者名を保育園や学校に知らせました。子の進学により、他の保護者との接点もできます。誰も敢えて口にはしませんが、いろんな人が、別姓の私の家族に関し様々な〝憶測〟を巡らせることは想像がつきました。そこで積極的に、私たちの姿を見ていただくことにしました。子は夫婦2人の実子であること、別姓事実婚をしていること、そして何よりも、〝普通の家族〟であることを周囲に見てもらい、理解していただくように努めたのです。それが奏功したのかどうか、今となっては分かりませんが、子は特段色眼鏡で見られたり、いじめられたりしたことはないまま成人しました。むしろニコニコしながら、「よそのおうちは、どうしてお母さんとお父さんの名字が一緒なの?」と無邪気に質問されました。産まれた時から私と妻の姓が違えば、子は「ああ、そんなものか」としか思えないのです。別姓の私が、ある日突然出現したわけではなく、オムツを替えミルクを与え、普通の父として振る舞っていたに過ぎないので、子にとっては違和感を覚える理由などないのです。ここで、皆さんが幼かった頃、友達の両親のことをどのように呼んでいたか、思い出していただきたいと思います。「Aくんのお母さん」「Bちゃんのお父さん」が普通。その姓がどうか、気にする理由などないのではありませんか?

「いじめられる」という発想は、自身が抱く蔑視感情の表れ

別姓婚夫婦は、2人とも姓を変えないこと以外は〝普通〟の夫婦に過ぎません。しかし冒頭でも触れたように、選択的夫婦別姓の実現を求めてSNSなどで情報発信すると、否定的な意見が多く出ます。特に多いのが「姓の違う子はいじめられる」というものです。上述したように、そんなことは全くないのですが、どうしてこのような声が根強いのでしょうか?その理由は、不倫・妾腹による婚外子や離婚など「特別な事情」で親と別姓の子ができた、という偏見によるものだと推察します。実際、「別姓婚とは、道ならぬ恋で結婚できなかったカップルに、法律婚と同等の権限を与えるもの」と勘違いしている人すらいます。〝普通〟の家庭でないことに蔑視感情を持つこと自体が許されないのは言うまでもありませんが、日本はつい最近まで、例えば非嫡出子が相続する遺産を、嫡出子より低く抑えるような差別が合法的に行われていたような国だったのです。人々の偏見が、不公平な法律を近年まで残存させていた、とも考えられるでしょう。私は、「親と別姓の子供はいじめられるからかわいそう」と主張する人たちに対して、次のように申し上げたいと思います。「〝かわいそう〟とは、自身が抱く親と別姓の子に対する差別感情を当事者の責任に転嫁しておきながら、哀れな存在に憐憫を垂れる優しい自分を演出しているだけです。それは卑劣ではないのでしょうか?いじめられるのがかわいそう、と思うなら、いじめる方を批判するのが正しい態度ではないでしょうか?」と。その一方で、かわいそう、と思う自らの心底に潜む蔑視感情と真摯に向き合い改めて欲しい、そう心から願います。c