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姓が同じでないと家族ではない?

不規則勤務のため毎朝欠かさず見ている朝の連続テレビ小説「なつぞら」。戦争で両親を失い、兄と妹と別々となり、自らは、親の戦友に引き取られて、北の大地で、酪農業を学びながらもやがて、アニメーションとの出会いで、その道に突き進む主人公奥原なつの生き方を通じて、いつも感動の涙を流しているだけでなく、思いがけない発見もしている。
 別姓の問題でいうなら、ドラマの中で、姓が別であっても家族としての繋がりさえしっかりしていれば、同居していても差し支えないという印象を受けた。
 あの当時としては、まだまだ偏見が強い時代ではあったけど、制作する側からの意図として、今の時代に照らし合わせたストーリー性そのものが、多様な社会で形成されているという実感が、ドラマを見ていてそう湧いてきたのだ。
 とにかく一つになることが、決して悪いとは言わないが、違和感を抱えたまま、自分の姓を変える変えないではなく、互いに納得しながら歩める社会にしていくには、価値観の違いを大事にしながら、新しい未来を築いて、後世へ繋げていくことではないかと考えられる。
別姓には、身近なところから考えられるケースは、これからもたくさん出てくるはずだ。それに応えることができるようにいくつもの選択肢が持てる多様な考えがあり、それを育てることだけでなく、認めあえる社会こそが大きな下支えとなって行けると確信している。姓氏に縛りつけてきた社会には、ある意味不平等な構造を生み出してきた経緯があリ、実はそれが不幸を招く結果となる。
「あそこん家とは親戚でもなく、赤の他人で関係がないのに頼られて来て困る」と、同じ地域に住む同姓の集まりの会合で、受けた仕打ちを経験してきたため、同姓であることが、決して幸せではないことを身に持って経験してきた。だからこそ、周辺との関係もさることながら、違いもあったりしながら、構成される社会へと、時代は変遷してきている。固定観念で縛り付ける時代は、終わりに来ているように思う。

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